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相場師三木瀧蔵
市場経済研究所代表 鍋島 高明
繊維商社三共生興の創業社長で神戸生絲取引所理事長をつとめ、全国商品取引所連合会会長として商品先物業界に巨歩を残した三木瀧蔵は相場師としても優れた才覚の人だった。
三木は明治32(1899)年、兵庫県豊岡市の在、津居山の回船問屋の3男坊に生まれた。兵庫県は数多くの名相場師が輩出しているが西宮や姫路が多く、豊岡出身の相場師は珍しい。山陰線の開通で家業が衰退に陥ったうえ、長兄が株と米相場でお家再興を図って傷口を広げてしまった。
三木は小学校高等科を中途でやめて上京すると、高島屋飯田合名会社の小僧となり、大倉商業の夜間部に通う。大正9年、21歳で独立。三木商店を開業する。この年は大正バブルが崩壊し、「東の茂木合名、西の鈴木商店」と並び称された新興勢力の双璧がパニックで痛手を負い、茂木合名は破綻するが、三木は茂木の投げ物を拾って一家を構えたというから豪の者である。
三木はこの時、初めて相場の恐ろしさと面白さを自らの肌で知ったという。三木が相場師として辣腕を発揮するのは、繭紬(けんちゅう、ヤママユの糸)富士絹、人絹といったマイナー商品に目をつけたことである。いずれも絹の代用品だが、不況期にはこれら絹もどきの商品がよく売れた。
「繭紬と並んで登場した富士絹の相場による利益こそ、三共生興の土台を作ったといって過言ではない。そして三木氏を一層大胆にしたのが人絹糸の商売である。繭紬や富士絹で儲けた利盛を人絹に打ち込み、買っては売り、売っては買うという明け暮れで二十代から三十代を過ごした」(亀井定夫著「私はこうして商品相場で儲けた」)
三木が最大のピンチに陥るのは朝鮮戦争後のパニックの時。伊藤忠が「一等注意」、丸紅が「マルくれない」、日綿が「ケチめん」と仇名された昭和27年、三共生興は破綻寸前に追い込まれる。亥年生まれの三木は相場でも猪突猛進型でのしてきたが、この時の失敗にこりて相場師から足を洗った。
しかし、「旭の道楽息子」と呼ばれた旭化成のベンベルグに目を付け、三共生興を飛躍に導き、旭化成の業績にも大きく貢献、三木瀧蔵が関西財界に重きをなしていく。やはり時代の底流を読む相場師の嗅覚が商品開発に大きな力となった。
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