革命家と相場師の友情譜
「幸徳秋水と小泉三申」
市場経済研究所代表 鍋島 高明
 革命家と相場師の交遊録としては明治末期孫文と鈴久との交わりがつとに有名である。兜町で成金王と称された鈴久こと鈴木久五郎は莫大な運動資金を孫文に提供し、孫文は「鈴木先生博愛 孫文」と揮毫した。中国革命の父、孫文から「先生」と称えられ、鈴久は少々こそばゆいものがあったかも知れない。
 幸徳秋水と小泉三申との交友は「新聞界、刎頚の交わり」といわれるほど親密だった。秋水は土佐中村、三申は静岡南伊豆に生まれ、ともに自由民権少年として育ち、板垣退助の「自由新聞」で机を並べる。記録によると、間代節約のため四畳半一間を二人で借りる。
 「有するもの一個の机、一枚の蒲団のみ。食料また一人前をもってせり。すなわち両者交互に宿直に当たり、三申家にあれば秋水社にあり、秋水帰れば三申出づ。後年秋水が大逆罪をもって獄に投ぜらるるも、毫も交わりを変えず。現代の管仲飽叔をもって称せらる
※中国春秋時代、管仲と鮑叔牙が終始交情を温めたことから「管鮑の交わり」と呼ばれ、友人同土の親密な交際を指す。
 秋水が萬朝報論説記者時代、三申は九州新聞主筆だったが、月のうち二十回も顔を合わす。やがて秋水は有楽町で「平民新聞」を旗上げ、三申は蛎殻町で「経済新聞」を創刊する。
 本書は叛骨ジャーナリストの友情物語である。米相場や未公開株で巨利を博した三申は秋水への資金援助を惜しまない。無政府主義に傾斜していく秋水の身辺に明治政府は臨時詰め所を設け、四人の巡査を張り付け、秋水の一挙一動を監視する。
 秋水の身の危険を察知した三申は自らが定宿にしている湯河原天野屋を借り、秋水を「隔離」する。だが、時すでに遅く、大逆事件の首魁として逮捕され、非公開の大審院(最高裁)特別法廷で証人訊問もなく死刑の宣告を受け、六日後に処刑される。刑場に連れ出される時、書きかけの原稿が散乱しているから整理したいと申し出たが許されなかった。「幸徳秋水墓」と染筆したのは三申だった。
(高知新聞社刊、税別1,700円)

    (週刊 先物ジャーナル 第908号 掲載)