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気概を失うな
市場経済研究所代表 鍋島 高明
昭和の初め、金融恐慌が吹き荒れていたころの話である。米屋町と呼ばれた日本橋蛎殻町周辺は大正バブル騒動時とは打って変ったさびれたようであった。東京米穀商品取引所(東米商)の第一部市場(蛎殻町、米)の出来高はピーク時に比べ半減していた。米価に統制のさるぐつわがはめられ始めて、値動きが乏しくなっていたためだ。第二部市場(杉の森、綿糸)、第三部市場(佐賀町、小麦、大豆粕)にも活気がなかった。
当時、取引員は約50人。その色分けは自己思惑が有力顧客2、3人を抱えた「手張り屋」が7軒、あとは「お客屋」が42軒。「手張り屋」は時々、仕手として大向こうをうならせる大相場を張る。「お客屋」は大勢の小口客を擁するが、「切手屋」と「呑み屋」に分かれる。切手屋はお客の注文を市場に付け出す。もっぱら手数料収入に依存、ボロい儲けもないが、危険も少ない。「切手屋」は12軒あるが、いずれも老舗として信甲を博していた。「切手屋」の由来は郵便配達夫のように律儀で、切手は貼っても相場は張らないためとか。
あとの30軒が「呑み屋」。明治大正の呑み屋は競馬の呑み屋と同様、お客の注文を文字通り呑み込んで、しまうやり方だったが、昭和の御代ともなると、さすがにご法度、それでもお客の注文に向かって、お客と店が勝負する形となる。当時、従業員が約800人、内勤と外交は半々だった。取引所職員は第一部43人、第二部19人、第三部12人、しめて74人。
貧乏経営の取引員たちは金傑藤田謙一(東京商業会議所会頭)の融資に頼るようになる。取引員を支配下に収めた藤田は取引所理事長のイスを狙う。とうとう藤田の金力と名声に屈して業界は理事長に藤田を推薦するに至る。ところが、主務省(商工省)が藤田に強く反対、結局、三井物産のOBの窪田四郎が理事長に就任、一件落着、藤田は幻の東米商理事長に終わる。窪田は戦後農林大臣を2度つとめた内田信也の兄に当たる。
東商の会頭が東米商の理事長にご執心であったことを意外に思うかも知れないが、戦前の東米商はそれだけ高い位置にあったということだ。昨今の寒々とした先物市場を見て、思うことは先人たちが営々と築いた文化を次世代に受け継ぐ気概を失ってほしくないということだ。気概を失う時、人は老いる。 |