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先物王国 CBOTの落日(下)   
 シカゴ・ボード・オブ・トレード(CBOT)とEUREXの関係は、いきなり対立から始まったわけではない。むしろその逆で、2001年にCBOTがシカゴ・マーカンタイル取引所(CME)の電子取引グローベックスへの対抗馬として発表した“a/c/e”は、EUREXのシステムを利用したものだった。
 当時のCBOTには、EUREXと組むことが長年続いたCMEとのライバル関係に打ち勝ち、望ましい方向に改善させることになるとの考えがあった 。そして実際にa/c/eの取引高は200 2年には年間1億3千万枚の大台に乗ったのである。
 ところが、そんな蜜月時代もつかの間。02年になると、年間5億円にも上る電子取引のロイヤリティーが高すぎるとの批判に始まった「反EUREX」の声は徐々に大きくなっていった。何よりCBOT関係者を心配させたのは、EUREXに見え隠れする、米国の取引所を取り込もうとの野望だった。EUREXの主な株主は欧州籍のヘッジファンドたち。ヘッジファンドのなんたるかを 知りすぎるほど知っているシカゴの人間にとって、危惧は高まっていくばかりだった。
 そして04年1月、CBOTとEUREXは決裂した。CBOTは、新しい電子取引システムの提供をユーロネクストLIFFEのLIFFEコネクトに求め、EUREX はa/c/eのプラットフォームをそのまま に、新取引所“EUREX US”を立ち上げた。
 とはいえ、システムをドイツのそれからイギリスのそれへと乗り換えたこの時点でさえ、CBOTの態度は中途半端だった。電子取引は必要、しかしフロア取引もやめられないとの態度を変えることができなかった。まさに「時代の趨勢を見誤った」といっていい。
 CBOTは実は、それ以前にも世界の先物関係者たちの首をひねらせる「投資」をひとつしている。それは、1997年、隣接ビルに世界最大のオープン・アウトクライ取引フロアを開設したことだ。その取引フロアは―悲しいことだが―地元メディアから「電子取引への移行後はジャンボ機の格納庫に使える」と叩かれる始末だった。
 とはいえ、CBOTのEUREXに対する危惧は決して誤りではなかった。EUREXがCBOTの城下町ともいえるシカゴにおいて新設した「EUREX US」は、CBOTとCMEの大名クラスと もいえる複数先物ブローカーを味方につけ、上場商品にはCBOTの看板商品である米国財務省証券(Tボンド)をぶつけてくるなど、まさにシカゴ市場に対抗するものだったのである。
 しかし、このEUREX USの登場で、シカゴ2取は逆に結束を強め、証拠金のプール制(コモン・バンキング)や共通清算(コモン・クリアリング)などを実現する。これらは2取引所の共通清算会員の間では長年の悲願であり、実際に、この時からCBOTとCMEの合併は現実味をもって語られ始めた。その意味では、EUREXがCME=CBOTの合併の触媒だったといえなくもない
 (小島)
06/11/6

     (週刊 先物ジャーナル 第864号 掲載)